「薄氷の踏み方」における工芸について

今、読み進めている本ですが、とても面白い。今をときめく、武道家と精神科医の対談本です。
この中に、工芸に関する下りがあったので、紹介させていただきます。

甲野 今ふと思い出したので、ついでに言うのですが、「愛国心が大事」というのはすごくおかしいと思いますね。やはり人間がいとおしく思うのは、自分が育ってきた「文化」に対してですよ。その人が育ってきた街の風景や文化、あるいは習慣などに愛着を感じているわけです。懐かしい雰囲気そのものだったり、昔から使い込まれた道具であったり、決して文化の容れ物である「国家という枠」に愛着を感じるわけではありません。
今、非常に胡散臭く感じるのは、そこをいつの間にか、為政者が混同させよう、混同させよう、としているように思うことです。
どうして私が「愛国心」という言葉を使うことに抵抗を感じるのは、そういうことに気づいてしまうからなんです。そこが整理されてくると、あやしげな「愛国心」とはずい分違う、もっと自然と人が信じられるような言葉が出てくるんじゃないかなと思うのです。

名越 家に代々200年も伝わっているような漆の器があったとします。そして、その温かさというか、手に取ったときのなじみ感や、毎朝それで味噌汁を飲むときに感じるぬくもりとか、それに伴う思い出とか、先祖がそれを使っていたという系譜的な感触といった、それらのものが集まった一つの器を、自分が本当に自分の身に引き寄せて感じることができたら、これはもう、その人の中に「一つの国の形が見えている」と思うんですよ。今の日本には、そういう人がほとんどいないでしょう。
極端に言えば、自分とその器に本質的な意味を芳醇に嗅ぎ取る、感じ取ることができたら、たった一つの器の中に、その人にとっての、「日本」があると言えるのではないでしょうか。
逆に言えば、そういう部分がなくて、「ただ国を愛せ」とか「精神文化が大切だ」と言っても、それでは「この器は唯一無二の私のものである」というそれだけのパッケージを持つことにも劣るように思います。今の国が僕たちに与えようとしているのは、内容のないただの「標語」みたいなものです。
それがどれだけ貧困なものか、目指すべき方向性が全然違うわけですよね。無意味な標語を掲げる閑があったら、各地域にある独特の塗り方をした器のこととか、その地域に伝わる伝承だとかを年月をかけて子どもたちに伝えられる大人を探したほうがいい。そういう大人たちが何人もいる環境で、子どもたちの中に育て上げて行くものが、その人の「風景の中の国家」につながっていくんだと思います。
そういうことが寸断されている世の中で、いきなり「国に愛を持て」というのはおかしい。そういうことを言えること自体で、僕はその人の国に対する感覚を疑いますね。(p42−43)

お二人の言われることに、まったく同感です。

皆さんは如何でしょうか。

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