物を作る上において様々な材料が存在する。その中で粘土というものは実に多種多様であり、可塑性に優れ容易に成形しやすく、焼成後は安定なため、古今東西で利用されてきた。
では、粘土を用いた造形とは、果たしてどういったものが「粘土らしい、粘土ならではの」と言えるのだろうか。
粘土による造形では、たたら作りやひも作りなど、ろくろを用いない技法も多数存在する。それらはろくろとは違った魅力を持つが、例えばオブジェ作品などを鑑賞する時、僕は、果たしてこの作品を粘土で作る必然性があったのだろうか、という疑問を持つことが多い気がする。
作品を作る時、特にオブジェ作品の様な主観性の強いものは、まずテーマありき、で材料は目的に応じて使うべきだと思う。粘土でオブジェを作るならば、それが粘土での造形である必然性がいるだろう。たまたま、普段粘土を使い馴れているから粘土で作る、のでは訴求性に欠ける。粘土を用いる以上、その特性を生かしたものでなければならない。
僕がオブジェに興味があっても、なかなか作らない理由の一つである。
ろくろとは、回転する力を利用し、その遠心力で粘土を円形に成形する技術である。ろくろの発明によって、生産性が飛躍的に向上したのは間違いなく、素早く大量に器を作り出すことを可能にした。そもそもが、大量生産を目的とした道具・技術であった。
しかしまた、その単純な回転運動を利用した造形は、美しい形も生み出す。一息の呼吸と回転のリズムが一致した時、そこに作者の指先または代わりとなる道具によって、奇跡のラインが出現する。
それは粘土と“ろくろ”という道具によってのみ、生み出されるものである。ろくろを使う業種はほかにあるけれども、材料を遠心力で外に向かって引き延ばしていくものは焼き物だけである。
僕がシンプルな食器作りに夢中になる、最大の理由である。
・・・と、まあなんだかムツカシイことを書いているみたいですが、良いものを作りたい、という願望と現実の生活というものは、なかなかうまくバランスを取るの大変だ〜^_^;
で、ひと息こうやって文章にして考えをまとめてみるのです。俺は間違っているのか?
実際、仕事をしている最中は、ナーンにも考えていないものなのです。鼻歌歌ったりして(^^ゞ時にはため息ついたりして。ホントに集中している時は、頭の中が真っ白になる。時間の感覚もなくなる。
まだまだ暗中模索の日々です(笑)
(これは2005年8月5日に書いた記事を若干訂正し、再録したものです)
普段ろくろに接していらっしゃる経験から紡がれた地に足がついた文章ですね。
文章からろくろ仕事が見えてきそうな気がしました。
>desafinadoさん
いつもコメントありがとうございます。
なかなか日本語、難しいですが(笑)今後はちょくちょくこういった記事を書いて行こうと思います。
どうぞお楽しみに!(^_-)
地面を掘ると当然『層』という区切りがあって、掘り進めると、これまた当然『粘土』が現れます。
その度に思うのは「コイツはいったい何年振りに日の光を浴びたんだ?…百年か?千年か?いや、もっと前か?」
そんな事を考えると、地層のそれぞれは俺なんかより大先輩であり、想像を絶するほど大きな存在のように思えてきます。
世の中には色んな資源がありますが、その一つ一つを尊重し、より良い方法で扱おうと考えるのは大切な事だと思います。
食器は人に役立っています、そしてそれに美しさが加わることで、料理や飲み物が美味しくなります。
長い間地中に埋もれていた粘土が地上に出て、人の目に触れ、感動や癒しを与えるものに変貌する。
これは粘土冥利に尽きるってもんですよ、ええ。
>盆造(´ー`)y━・~~~さん
いやあ、深い!地層だけに!
冗談はさておき(^^ゞ
粘土が出来るのには、何千万年間も高圧が加わらないといけないそうです。
つまり、本当に地底奥深いところでないと、出来ない。
しかも、その後地表近くに隆起して来なければ我々の目に触れることもない。
いろんな条件が重なって、初めて陶器として生まれ変わります。
そのことのありがたさを日々感じながら、仕事をしています。
だからほんの少しの土も、無駄には出来ません。
それは、いい仕事をしなければならない、ということでもあります。
粘土冥利、重い言葉です。
果たして私の仕事がそれに値するのか?
ありがとうございます。
身が引き締まります。