以前(2011年)、綾町工芸コミュニティ協議会HPの企画として掲載した、綾町を代表する現代の名工、綾の手紬染織工房 秋山眞和さんと、グラスアート宮崎 綾工房の黒木国昭さんのお二人をお迎えし、私陶房八十一の興梠智一がインタビュアーとして工芸に関するお話を伺った記事をここに再掲する。
興梠:
今日はざっくばらんに、後輩に話を聞かせるような感じで、よろしくお願いいたします。
まずはじめに綾町に来られたきっかけについてお話を伺おうと思います。
黒木:
僕の場合は、修行したところから独立するということで、鹿児島県の島津の薩摩切子を再興する仕事に就いて、契約後の行き先について各所から問い合わせがあり、その後当時の松方宮崎県知事、郷田前綾町長,雲海酒造中島社長に説得されました。照葉樹林の町の取り組み等々いろいろ総合的に考慮して 酒泉の杜に昭和50年代に工房を構えました。
興梠:
秋山さんが綾町にこられたきっかけはどうだったのでしょうか?
秋山:
私は昭和36年に沖縄で織物業をやっていた先代から家業を継ぎました。先代は沖縄からの疎開で現在の大島町へ移住し、疎開者のための授産事業で織物業を始めました。当時、織物は沖縄のものとして世間に流通していましたが、私は宮崎の織物を世に出したいという思いがありました。そんな思いと綾町の思いが合い昭和41年1月に綾町に来ることになりました。どの町にするのかを決定する時に決めていたのは、漢字の中に糸編がある事でした。はっきり言うと、ネーミングだけで綾を選んだところもあります。(笑)「綾の手紬染織工房」という屋号は、日本民芸協団の三宅忠一さんにつけて頂きました。
興梠:
綾町が工芸の町として発展していくきっかけは何だったのでしょうか?
秋山:
芸大出身という異色の経歴を持つ、県庁マンの黒木進さんが、綾町=田舎というデメリットをメリットに変える考えとして、「手工芸のまち」というアイデアを出されました。黒木進さんの芸大の頃の友人たちの画家やデザイナー、中央にいる高名な方々を綾町に呼んで、森の中でバーベキューをして、もてなしたりしました。昭和42年くらいの話です。
興梠:
その後、どのような流れだったんでしょうか?
秋山:
「手工芸のまち」とする為に、黒木進さんは焼き物がなければいけないと考えていました。ということで小石原から山本源太さん(源太窯)を連れて来ようとしました。しかし既に星野村(福岡県)での独立を決めていた為、近くにいた川村賢次さん(故人)を連れて来られました。その後、石川県の山中漆器の後藤さん、都城の関谷木工さんを呼んで来られました。それらの職人集団を集めて作られたのが「ひむか邑」というグループです。「ひむか邑」という名前は、黒木進さんと検討した結果、市町村の「村」ではなく「邑」という字にしました。これは、東京を歩いていた時に見つけた「まり邑」という用品店からヒントを頂きました。
興梠:
第30回を迎える工芸まつりですが、どのようにして始まったのでしょうか?
秋山:
柏崎栄助さんの提唱で、「村には祭りが大事だ」ということでじゃあ祭りを作ろうという話しになりました。はじめに「まゆ祭り」を開催しました。最初は大学の春休みがいいだろうという事で、4月の第一土曜日にしました。4、5回開催した後、工房が神下から小田爪に移る時に3、4回か休みましたが、現在まで続いています。そのころ、「綾町工芸コミュニティ協議会」が発足しました。前田剛さんが「工芸まつり」を作ろうということで始まりました。「工芸まつり」は「ものつくり感謝デイ」という主旨で、勤労感謝の日にしようということで今の時期になりました。「まゆ祭り」の方が6年ほど早く始まりましたが、工芸まつりが秋にあるならまゆ祭りもそれに合わせようということで現在の秋になりました。工芸まつりの第1回目は今の綾川荘で開催されました。
興梠:
ちょっと話題を変えまして作品を作る上でのこだわりをお聞かせ下さい?
秋山:
食品じゃないけど安心安全なもの作りにこだわっています。今は99.6%くらいが中国からの輸入の絹で製品が作られています。中国から日本に輸入される絹は、ほぼ100%、凄い量の防腐剤で処理されています。だからアトピーとか問題が出てきます。また、普通絹製品はアイロンを80度以下にする必要があるのですが、120度で高温殺菌しています。それでは本来の絹の味わいは出ないのです。だから私達は1から自分たちで作るようにしています。
興梠:
身につけるものも食べるものも一緒、ということですね。
秋山:
元々服という字には、植物染料、つまり漢方薬で染めていたわけで、それを飲めばもっとよくなるのではないか、ということで服用とか内服とかいう言葉が生まれたんです。私達は本当に体にいい服を残すことが大事ということで仕事をやっています。
興梠:
黒木さんのこだわりはいかがでしょうか?
黒木:
私はガラスという西洋の媒体を使って、環境保護などの仕事をしてきました。それがたくさんの人びとに支持されてきました。これからも風土とか伝統的なものなどを大事にすることを訴えていきたいと思います。これからも劣化しない、百年千年たっても色が変わらない作品を残すことに全精力をかけています。自分の寿命は限りあるものですが、ガラスの作品はずっと残ります。未来の人びとのために素晴らしい作品を残していきたいです。
興梠:
景気の後退とか日本をめぐる状況などを踏まえて、工芸を取り囲む環境は今どうなのかという事や、長い不況の中どうしたらよいのかという事をお話頂きたいと思います。
黒木:
私は思うんですけど、私が理念としている分析とリサーチを、全ての面で徹底してやればよいと思います。分析とリサーチというのは過去にも戻るし、現状も分析します。過去と現状を分析した結果がこれからの時代に対応できるのです。それができていないと、今起きている事が見えないという状況になります。私が長い経験で見てきたのはその部分です。
ガラスというものは、日本からみたら異端児であったり、違和感のあるものに近いのかもしれないです。西洋の流れから取り入れたものですから。しかし今、後進国を含めてかなりのメリットをガラスは提示してくれています。生命工学から、宇宙航空開発、あらゆる住文化の生活、ガラス窓がなかったら全くお手上げになってしまいます。雨風を防いでくれ、室内の温度を確保してくれ、光を自由に取り入れ、外がすぐ分かる。その4つの面でガラスに勝てる素材はありません。それぐらい素材の分析もして、そのありがたさも感じなければいけないですね。
興梠:
秋山さんはいかがでしょうか?
秋山:
すごいですね。黒木さんの場合は、日本の中にガラスという伝統がなかったハンデを最初から意識してらっしゃるからえらいんですよ。我々、染織も織物も伝統という胡坐の上にかいてきたかなと。
黒木:
見事に当っていると思う。
僕がいつも思うのは、なぜ日本の伝統的の中心に座った着物とか染織とか焼き物がそれぞれの画廊で売れないのかという事です。私のガラスが外から入っているから売れないというのは分かるけど。それが一番育たなければならない素材が、なぜ多くの人に支持を得てないのかと。
秋山:
私達の場合は、チキン戦争で同業者が潰れればいいかなと思っていたのもあるんです。全国的に。しかし皆さん結構したたかなんです。伝統があるから財産はありますし。だから大変なんですね。
興梠:
焼き物業界の場合、焼き物の歴史はありますけど、それぞれの工房の歴史というのはバラバラですね。だから伝統は個人的に売る上ではあんまり関係ないです。
秋山:
日本の歴史をみたら、工芸がもてはやされている場合と、芸じゃなくて、動物的に生きればいいという道具だけの時代がありました。例えば、江戸時代だって安定しているように見えるけど、飢饉の時もあるし、文化文政みたいに行き過ぎた事もあります。その繰り返しのサイクルの、悪いサイクルに今現在ある訳です。水を飲む時に、飲めればいいんだったら手ですくって飲めばいいのです。しかし文化が落ち着けば、やっぱりいい器で飲んだらおいしいなという時代になると思うのです。それが工芸を作っている我々の目的なんですよね。
黒木:
私は食文化の変化が関連していると思います。食事の中に焼き物を使おうという習慣が、それを意識する家庭でない限りは使わなくなっているように思えます。器で食べる楽しさとか、豊かさを感じないまま子供が大きくなっています。こういう事が、今、広がっていると思います。
興梠:
大量消費社会と我々工芸者の立場、そもそもの立場が逆方向ですからね。
黒木:
今の現象は、器を使わないで食べているという事に気づいている人が本当に少ないという事だと思います。それを親が伝えていかないといけないのですが伝わっていない。でもやっぱり器を、使って食べる喜びとか楽しみというものは伝えていかないと、この感性を失ったらもう焼き物を買う人はいなくなります。だからその現実を見失ってはいけないのです。そこから、処方箋が始まるんです。だからこれを、少数派であっても頑張っていかないといけないと思います。
興梠:
でも頑張ると売れないんですよね(笑)とはいえ、そこのところを理解して頂ける、そう考えてらっしゃる方もいるんですよね。まだまだ少ないですけど。不思議な事に、僕のところでは人に頼んで売っている分は減っているのに、直接工房に来て頂くお客さんというのは増えているんですよ。
興梠:
それでは、最後に現代の名工として一言お願いします。
黒木:
綾の目指す方向を分析とリサーチをして確立して行こうということです。具体的に言えば、時代を分析すれば一目でわかります。そのなかで綾町しかできない役目を見つければいいのです。綾から日本の世直しをかけられるような町にしたい。食べ物も有機農業、無農薬だし、照葉樹林の文化もある。大きなバックがあるわけです。もう一回原点に戻って自分たちの街を考えていく時ですね。そしてそのためには、今の現状をみんなが認知をしないといけない。そこからはじまるんです。それから処方箋がでてきます。足元を知れば自分の力がわかるし。綾の工芸者が強くそこに目を配る必要があると思います。
興梠:
秋山さん最後の締めをお願いします。
秋山:
もともと綾というのは 居住まいを正して行くような街でした。私はもう一度その原点に戻ることも必要じゃないのかなと思います。軽い気持ちで綾に行ってみようというのではなく、覚悟を決めて綾に行こうという気持ちになるようなものが必要なんじゃないかなと思います。
興梠:
今日は大変貴重なお話をありがとうございました。
対談を終えて:2時間に及ぶ対談は、終止冗談を交えながら穏やかに進みました。当初、個性のお強いお二人のこと、どういう方向に行くのやら?といらぬ心配(笑)もしていましたが、綾での工芸の起こりのまさしく生きたお話はとても興味深く、我々後進も先輩方の足跡を汚さぬように精進せねば、とつい背中を延ばすような気持ちになりました。お忙しい中、快くこの企画をお受けいただいた秋山さん、黒木さん、ありがとうございました。また、場所を提供いただいた「すみじ庵」さんにも感謝致します。 八十一拝
撮影場所:すみじ庵(うなぎ料理) 住所:宮崎県東諸県郡綾町大字南俣595-5 電話:0985-30-7032 外はパリパリ、中はふんわりのうなぎ料理が自慢のお店。 現代の名工お二人も絶賛でした。 食器やのれんなど綾の工芸品がふんだんに使われています。 |