話しておきたいことは、今、話しておこう〜思い出のiPhone〜

 今年は「異常」という言葉も霞んでしまうかのような夏!でした。
皆様、お変わりありませんか。
 9月に入り、ああ、涼しくなってきたなあ、秋だなあ、と思って気温計を見ると30℃。あはは。

 ところでこの原稿を書いているのは9月24日の夜。今月に入ってから、親しい人の訃報が立て続きに僕を襲い、日常の中に何やらボーゼンとした部分をはらみながらパソコンに向かっております。

 「椎葉山の語り部」代表の中瀬浩視(なかせひろみ)さんの突然の訃報が飛び込んで来たのは10日のこと。中瀬さんは年齢が確か僕の2、3つ上で、本当に信じられませんでした。宮崎山形屋での物産展の案内の葉書を頂いたばかりでした。その催事の最中に倒れられた、ということでした。
 中瀬さんとのお付き合いは、10年ほどになるでしょうか。初めは、確か無料情報誌「みちくさ」主催の異業種交流会だったと思います。その後、札幌東急での催事でご一緒させて頂いたり、綾の工房に寄って頂いたり、県庁前の物産展にお邪魔したりと、2年に1度くらいはお会いしてバカ話をしていたように思います。
 椎葉に遊びに来ないよ、いやあ、行きます行きます!と半分本気で言っていたのに。今年の夏こそ、自転車で人吉周りで伝説の不土野峠越えして椎葉に行こうと計画までしていたのに(実際は、メンバーの希望により尾鈴キャンプ場に変更)。
 なんてことでしょう。大きな体格に似合わず、性根の優しいスケベなアニキでした。合掌。

 17日は、尊敬する都城の叔父の葬儀でした。四人姉弟妹の一番上である母の、末の妹のダンナ様。本当に、怒ったところが想像できないくらい優しい人でした。
 高校の英語教師をしていた叔父は、僕が高校生の頃に夏休みの課題で書いた読書感想文を、審査員として読んだことがあったそうです。のんびりした(と言うよりちょっと天然な)叔母と、よく仲良く旅行に行っていました。透析をしていたため、無理なことはできなかったようですが、それでも孫が中学の卓球部に入れば、卓球好きの自分の出番とばかりに部活に出向いてコーチをしていたようです。
 その他にも詩吟や釣りをしたりと多趣味な叔父でした。血の繋がりはなかったものの、自慢の叔父でした。享年68歳。まだまだいろんなことを教えてもらいたかった。

 叔父の告別式の二日後。午前11時前だったでしょうか。叔父の一人息子、つまり僕の従兄弟から電話がありました。
 叔父の通夜にも来て頂いていた髙野哲(さとし)先生が倒れられて病院に運ばれたと。先生はまだ現職。まさか。

 髙野先生は、従兄弟の長女、小松原中卓球部だったSちゃんの顧問でした。なぜその一報が僕に?

 実は、今から32年前、延岡市立土々呂中学生になったばかりの僕の担任が、髙野先生でした。先生も教師2年目、初めての受け持ちのクラスで、その後生徒会、3年時の担任と僕とは浅からぬ縁を持った方でした。

 それだけではなく、僕に音楽を教えてくれた恩師です。教えてもらった、といっても音楽の教師だった訳ではありません。理科の先生だったのですが、その頃ラジオで洋楽のロックを聞き始めた僕らに、学生時代バンドをしていた先生からの情報は、今のようにインターネット何ぞはなかったころの話ですから、とても興味津々に伺ったものです。
 例えば、当時ラジオのヒットチャートを賑わしていた「エイジア」というバンドがあり、そのファーストアルバムを録音した90分のカセットテープを先生からお借りしたことがあります。そのエイジアも結構好きだったのですが、B面に入っていた聴いたことのないバンドの方が僕は気に入ってしまったのです。
 それは「キャメル」というバンドの「シングル・ファクター」というアルバムでした。エイジアと違い、こちらはヒットチャートとは無縁の、一部のファンが喜ぶだけのもの(とは言っても、イギリスのバンドで日本盤が出るくらいですからそれなりの知名度はある)でした。

 思春期に入ったころの僕には、そのキャメルのどこか憂いを帯びた旋律に心が震えるようでした。そして髙野先生のフェバリットバンドがキャメルだったのです。

 それからなけなしのお年玉でキャメルのレコードを集めるようになり、先生からもキャメルに限らずレコードをお借りしたりしていました。
 ロックを聴き始めてすぐに、ヒットチャートの曲では飽き足らずに、主に70年代のロックを聴くようになって行きました。イエス、ピンク・フロイド、レッド・ツェッペリン、ウィッシュボーン・アッシュ、エレクトリック・ライト・オーケストラ、タッチなどなど。そういえば、チューリップの「Someday Somewhere」も借りたなあ。

 そしてキャメルは今でも僕が大好きなバンドです。もう10年くらい前になりますが、大阪でのライブにも行きました。

 先生は鹿大理学部の地学科のご出身でした。僕は現在陶芸家ですが、実は大学までは生物学者を志していました。それを決めたのは中学校時代。先生の影響は否定できません。

 また、その頃父親が宮崎に単身赴任していたこともあり、丁度ひと回り上の先生は、兄貴でもあり父親でもあるような存在でした。ずいぶんと、甘えさせて頂きました。僕らが中学を卒業すると同じくして、先生は東郷町坪谷中に赴任されました。
 高校2年の夏休み、自転車での阿蘇への野宿ツーリング初日に、先生のお宅に泊めて頂きました。その後は、僕が宮崎を離れたこともあって、疎遠になっていました。

 2年前、延岡市伊形の悪友のところに遊びに行っていたとき、酔っぱらって「先生に電話してみよう」ということになり、夜遅くだったに関わらず先生宅にご連絡したことがあります。本当に、久しぶりだったに関わらず、昔のように「おう」と応対してくださいました。その時に「遊びに行きます」とお約束したのでした。

 その年の11月恒例の「綾工芸まつり」。突然、先生が会場にお越し下さいました。驚きましたが、感激したのは言うまでもありません。ちょっと髪は薄くなったものの、昔の面影そのままでした。が、さすがに「もうバク転は出来んわ」と言われてましたが(笑)

 そして次の年は約束は叶わず、今年になってようやく都城へ遊びに行くことが出来ました。8月7日のことです。奥様にお会いするのも28年ぶり、その時はまだ最初の娘さんが生まれたばかり、今では四人の孫のおじいちゃん。夜中過ぎまで牟田町の「グリーンベル」というスナックで、70年代のロックのカラオケを二人で歌いまくったのでした。

 それなのに。

 従兄弟から電話をもらって小一時間くらいたってからでしょうか。工芸まつりにも一緒に来てくれた先生の長女さんから、「早朝に亡くなった」と連絡をいただきました。9月20日の昼のことです。
 それから同級生に連絡を廻すのに謀殺されました。昔のことなのに、先生を慕う教え子は僕だけではありませんでした。

 式には同級生3人で出席してきました。
 宮崎市内から車を出してくれた、1の9のクラスメイトでサッカー部で一緒だったK。僕が車に乗り込むなり、「お前を恨めしく思った」と言い出します。
 「?」身に覚えのない僕に、「散々並んでやっと手に入れたiPhone。一番最初の電話がお前じゃった」
 どうりで着信が鳴ったとたん、電話に出たはずです(笑)彼はiPhoneを見るたびに思い出すことでしょう。

 式には、本当に大勢の弔問客が来られていました。先生のお人柄が偲ばれます。神式だったのですが、玉串奉奠が1時間でも終わらなかったのですから。

 ところで、21、22日の二日間、国富町の法華岳公園で「ホッケストック」が開催されたことはご存知でしょうか?今年で17回目になる野外ライブイベントです。
 実は僕もバンドで出演しました。21日のトップバッターです。先生の通夜に出掛ける数時間前です。
 この日演奏したのは、オリジナル曲を含め3曲。最後がピンク・フロイドの「あなたがここにいて欲しい Wish You Were Here」でした。

 先生に聴いて欲しかった。一緒に歌いたかった。叔父にも聴いて欲しかった。中瀬さんと、もう一度酒を呑みたかった。

 叔父の告別式、孫のSちゃんが弔辞を読みました。その中で、「じいちゃんが生きている時に、ごめんなさい、ありがとうを言っておけばよかった」と涙ながらに読んでいました。そうでしょう。まだ中学3年生の彼女は、いつも優しくしてくれたおじいちゃんがいなくなるなんて、思ってもいなかったでしょうから。それは私たち大人でも同じです。

 言える時に言っておく。話せる時に話しておく。会える時に、会っておく。人は生きている以上、必ず死によって別れが来る訳ですから、人との縁を本当に毎日大事に生きて行かなければ、と改めて思った平成25年の長月でした。

本当にありがとうございました。安らかにお休みください。

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